足利 義昭

あしかが よしあき

伊賀国, 備後国, 和泉国, 大和国, 尾張国, 山城国, 摂津国, 河内国, 紀伊国, 肥前国, 若狭国, 越前国, 近江国

概説


山城国の生まれ。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴

次男だったため、幼くして仏門に入り覚慶と名乗った。

第13代将軍で兄の足利義輝や母、弟・周暠(しゅうこう)が三好三人衆や松永久通たちに殺害された際、覚慶も松永勢に捕らえられ興福寺に幽閉されたが、義輝の側近たちに助けられ脱出に成功した。

奈良から伊賀へ向かい、さらに近江へと逃れた。

近江矢島村に御所を建て、覚慶はここで還俗し名を足利義秋と改めた。

河内の畠山高政や越後の上杉輝虎などと親密に連絡を取り合い上洛の機会を窺った。

三好三人衆の一人・三好長逸に矢島御所を襲撃されたが、大草氏などの奉公衆が奮戦しからくも撃退に成功した。

近江六角氏が三好三人衆の調略を受けていることを知ると、義秋は若狭武田氏を頼ったが、若狭国内は上洛の兵を挙げられる状況でなかったため、次いで越前朝倉氏を頼った。

越前滞在中、三好三人衆に擁された足利義栄が将軍宣下を受けてしまった。

義秋は「秋」の字が不吉であるとして義昭に改名した。

いつまでも上洛できずしびれを切らした義昭は、朝倉家臣であった明智光秀の仲介で尾張の織田信長を頼り越前を出た。

尾張に移ると、すぐさま織田・浅井氏の協力で上洛を開始。途中、六角氏の妨害があったがこれを退け無事に京へ辿り着いた。また、対抗馬だった義栄も病死したため、朝廷から将軍宣下を受けた。

仮御所の本圀寺が三好三人衆に襲撃された際には、奉公衆の奮戦や周辺勢力の応援もあり撃退に成功した。

二条城が完成すると義昭はこれに入城、続いて高家の者や奉公衆たちも参勤し、念願だった幕府再興が成った。

信長に対しては領地安堵の上で和泉守護に任命した。また、管領か副将軍への推挙もしようとしたが信長はこれを辞退した。

信長が伊勢北畠氏の本拠地・大河内城を攻略できず仲介を求めてくると、義昭は間に立って両者を和睦させた。

信長から義昭に対して将軍権力の制約をまとめた掟書が提出されるとこれを承認した。

義昭は信長と共に三好三人衆討伐に向かった。戦いは義昭・信長方が優勢であったが、石山本願寺の挙兵に呼応して浅井・朝倉連合軍が近江宇佐山城に向けて進軍を開始、迎撃した織田家臣の森可成、織田信治、青地茂綱が討死したが城は持ち堪えた。

事態を重大視した柴田勝家の説得で信長と義昭は急遽京へ戻ることとなった。

信長との関係が悪化すると、義昭は全国の有力勢力に御内書を送るようになった。

武田信玄は西上作戦を開始し三河の徳川家康を破る快進撃を見せた。浅井・朝倉連合軍もこれに呼応して進軍を開始、虎御前山砦を攻めたが、織田家臣の羽柴秀吉に撃退され、朝倉義景は越前に撤退してしまった。

義昭は信長からの和睦申し入れを一蹴し反信長の意志を明確にしたが、頼みの武田軍は信玄の病状悪化を理由に撤退、信玄も途中で死去した。

信長が入京すると、細川藤孝や荒木村重などが義昭を見限って信長方に奔った。

義昭は二条城に籠って徹底抗戦の構えを見せた。信長は朝廷を動かして勅命講和に持ち込み一時的に和睦するが、義昭はすぐにこれを破棄して槇島城で挙兵した。

三淵藤英は二条城で織田軍に抵抗したものの遂に降伏、信長の大軍が槙島城を総攻撃すると、義昭は近臣たちの説得を受けしぶしぶ降伏、京から追放された。

追放後も将軍職は剥奪されておらず信長の勢力圏外では引き続き権威を保った。

河内、和泉、紀伊を転々とし、備後の鞆に移ってここを拠点に定めた。

鞆滞在中、本能寺の変が起き信長は横死した。

信長に代わって羽柴秀吉が天下統一事業を進める中、義昭は島津氏に対して秀吉との和議をしきりに勧めた。

島津氏降伏後、義昭は秀吉に従って参内、将軍職を辞して受戒し昌山と号した。

秀吉から山城国内に領地を認められた。殿中での待遇は大大名以上であり、晩年は御伽衆として秀吉の話し相手となった。

文禄・慶長の役では由緒ある奉公衆を引き連れて肥前名護屋城まで参陣した。

腫物が原因で大坂にて死去した。

 

コメント


軟弱でわがままな将軍様のイメージが濃いですが、決してそういうわけではなく、足利将軍家の名誉を第一に考えて動いていたことが分かります。

ただ、やはりどこか世間知らずな点はあったと思われ、それを指摘されて不満が積もった結果、運命が変な方向に向かってしまったようにも見えます。

また、義昭の手によって戦国史上有名な出来事が起こっていたことに驚きを感じます(例えば上杉・武田の同盟や耳川の戦いなど)。さすが将軍様、スケールが違う!と思わされました。