加藤 清正
(かとう きよまさ)
加藤 清正
投稿日:2017年 7月 23日

尾張国の生まれ。豊臣秀吉の近江長浜時代からの家臣。本能寺の変後に起きた、賤ケ岳の合戦では敵将の山路正国を討ち取る武功を挙げ、賤ケ岳の七本槍に数えられた。秀吉による九州平定中、肥後国を任されていた佐々成政が改易されると、それに替わって清正が北側半国を与えられ隈本城に入った。現在の熊本城は、この隈本城を大規模改修したものである。朝鮮出兵では、明軍の支援を受けた朝鮮軍による抵抗を受け苦戦した小西行長隊に対し、清正隊は別路をとって順調に進撃した(文禄の役)。建設中の蔚山倭城に明・朝鮮の大軍が押し寄せた際には、側近のみを率いて急ぎ入城し、敵軍を迎え撃った。このとき敵に対して二万人もの損害を与え大勝利を収めた(慶長の役)。秀吉の死により日本へ帰国すると、徳川家康への接近を強めた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、黒田如水とともに九州の西軍勢力を次々と破った。その功績から、戦後に肥後南半国を与えられ、肥後一国を領することになる。二条城における豊臣秀頼と徳川家康との会見を取り持ち両者の和解に努めるが、その帰国途中に発病し熊本で亡くなった。

一般的に清正は武断派の武将として知られていますが、当初は代官として統治業務を行う官僚的存在だったようです。また、虎退治の伝説も実は黒田長政のものらしく、調べれば調べるほどイメージが変わる面白い武将だと感じました。