最上 義光
(もがみ よしあき)
最上 義光
投稿日:2018年 4月 14日

出羽国の生まれ。父は最上義守。寒河江城攻めで初陣を飾るが、戦いは失敗に終わっている。義光の妹・義姫は伊達輝宗に嫁ぎ伊達政宗を産んでいる。父・義守との諍いの結果、義光が家督を相続し義守は隠居した。しかし再び関係が険悪になると、義守救援という名目で伊達輝宗が最上領内へ出兵、義光は苦境に立たされたが何とか伊達氏を撤兵させることに成功した。最上八楯(最上領内の有力国人衆)を謀略を駆使して撃破し、最上郡全域を支配下に収めた。大崎合戦では大崎義隆とともに伊達政宗の軍勢を破るが、妹・義姫の懇願により和議を結んで撤退した。豊臣秀吉により羽州探題に任命された。小田原征伐が始まると父・義守の葬儀のため参陣が遅れたが、事前に徳川家康と交渉していたため咎めはなかった。豊臣秀次が謀反の疑いで切腹したことに連座して、まだ側室になっていなかった三女・駒姫が処刑されてしまった。様々な方面から助命嘆願を行い、秀吉も助命の早馬を出したものの間に合わなかった。義光夫妻は悲嘆に暮れ、数日間食事を摂ることもままならなかった。駒姫の生母も間もなく死去している。秀吉死後、家康による会津征伐が始まると奥羽諸将は最上領内に集結したが、上方で石田三成が挙兵すると家康は引き返し、諸将も引き揚げ始めた。牽制を任されていた義光は圧倒的に不利な状況を強いられた。畑谷城に籠る江口光清は義光の撤退命令に従わず少数の兵力で徹底抗戦し、直江兼続率いる上杉勢に多大な損害を与えたのちに玉砕、続いて長谷堂城が攻撃されたが志村光安や鮭延秀綱たちの奮戦により城は守り抜かれた。上杉勢は関ヶ原の戦いで石田方が敗れたことを知ると長谷堂城の包囲を解き退却を開始、義光は先頭に立って追撃したが兼続を討ち取ることはできなかった。関ヶ原戦後出羽山形藩の初代藩主となった。領内の復興に努め、城下町の整備、治水工事による農業生産性の向上などを図った。山形城にて死去。

駒姫の話は、彼女やその家族・関係者たちのことを考えると本当に無念で涙が溢れてきてしまいます。私も辛いと思うときがありますが、この話ほど酷いものではないので、くじけずに頑張ろうと思います。


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