大友 宗麟
(おおとも そうりん)
大友 宗麟
投稿日:2018年 4月 7日

豊後国の生まれ。出家前の名は義鎮(よししげ)。父・大友義鑑は宗麟よりも、その異母弟である塩市丸を後継者にしようと画策したが、身の危険を感じた家臣たちにより居館を襲撃され、塩市丸とその母は殺害された。義鑑も重傷を負い数日後に死去した。義鑑の遺言により宗麟が家督を継承した。周防国の大内義隆が重臣・陶隆房の謀反に遭い自害すると、弟・晴英(のちの大内義長)を新当主として送り込んだ。これにより大内氏との対立関係が解消され、また、博多を得たことで大友氏の経済力が格段に向上した。菊池氏を滅ぼし肥後国を獲得した。毛利氏による北九州進出に対抗して、将軍家との関係強化に努め、毛利氏との和睦の調停を依頼し自領の権益を確保した。国人衆や重臣・高橋鑑種が毛利氏に内通し蜂起すると、宗麟は重臣・立花道雪に命じて乱を平定した。毛利氏が筑前国に侵攻してきたが、両軍とも膠着状態に陥ったため大内氏の残党・大内輝弘に兵を与えて周防国に上陸させた。後方を脅かされた毛利氏は撤退を余儀なくされた。龍造寺隆信を討つため肥前国へ侵攻するが大敗した。薩摩国の島津義久が日向国に侵攻してくると、宗麟も大軍を率いて出陣、耳川の戦いが起きるが大友方は大敗し多くの将兵を失った。戦後、反乱や周辺諸国からの侵攻により、大友領は次第に侵食されていった。沖田畷の戦いで隆信が戦死すると道雪に命じて筑後国へ侵攻、大半を奪回した。しかし道雪が病死すると、島津氏が北上を開始、高橋紹運・立花宗茂父子が奮戦し侵攻を遅らせたが、もはやこの時点で大友氏単独での抵抗は不可能となっていた。当時中央で統一事業を進めていた豊臣秀吉に謁見し、その傘下に加わることを条件に救援を求めた。宗麟は臼杵城に籠り、大砲・国崩しを駆使して島津軍から城を守ったが兵力差は明らかであった。滅亡寸前で豊臣の大軍が九州に到着、戦局は逆転し、島津軍は敗走を繰り返した。しかしこの時宗麟も病に伏しており、島津氏降伏の直前に病死した。

小説などでは暗君・暴君のように描かれることがある宗麟ですが、その根拠は江戸時代に作成された資料らしく、信憑性は甚だ疑わしいそうです。事績を辿ってみてもバイタリティ溢れる名君だったのではないかなと思います。


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