武田 勝頼
(たけだ かつより)
武田 勝頼
投稿日:2018年 4月 1日

甲斐国の生まれ(?)。武田信玄の四男。父・信玄は信濃国諏訪の領主・諏訪頼重を滅亡に追いやり、その娘を側室として迎えた。二人の間に産まれた子が勝頼で、諏訪氏の名跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼を名乗った。親族衆に列せられ、信濃高遠城主となった。異母兄で武田家嫡男の義信が粛清されると、信玄から後継者に指名された。信玄による西上作戦が始まると、武田信豊・穴山信君と共に大将を務め、徳川方の二俣城を攻略、三方ヶ原の戦いにも参戦した。作戦中に父・信玄が死去すると家督を継承し武田勝頼を名乗った。勝頼は積極的に領土拡大を試み、織田領である東美濃・明知城を攻略し、続いて徳川領の遠江・高天神城を攻略した。先年に徳川方へ寝返っていた奥平氏を討伐するため、奥平信昌が籠る長篠城に攻撃を仕掛けた。しかし城はなかなか落ちず、その間に織田・徳川連合軍が設楽原に到着してしまった。勝頼は抑えを残して設楽原へ進出、連合軍と対峙した。陣城を構築した連合軍を見て重臣たちは撤退を進言したが勝頼は決戦を選んだ。開戦後、武田方の土屋昌続は三重の柵のうち二重まで突破したものの討死、勢いを失った武田勢は総崩れとなった。連合軍による猛追を受け、大勢の将兵を失った。また、長篠城の抑えも徳川勢の奇襲を受けて壊滅した。勝頼は命からがら退却した。長篠合戦後の状況を打開するため、勝頼は越後上杉氏・相模北条氏と同盟を結び領国の経営再建に取り組んだ。徳川軍による攻撃で高天神城が窮地に陥ると、信長との外交に支障をきたすことを恐れ援軍を派遣できず、結果見殺しにしてしまった。これにより武田氏の威信は失墜し国人衆たちの造反を招くこととなった。武田領に織田・徳川・北条の軍勢が一斉に侵攻を始めると、逃亡・離反する者が相次ぎ、逃げ場を失った勝頼一行は天目山を目指したが途中の田野で嫡男・信勝や北条夫人と共に自害して果てた。

何かの資料で見た勝頼の兜が忘れられず、色々アレンジして描いてみました。


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