伊達 政宗
(だて まさむね)
伊達 政宗
投稿日:2018年 1月 7日

出羽国の生まれ。父・伊達輝宗の隠居に伴い伊達氏の家督を継承する。輝宗が二本松城主・畠山義継に拉致された際には、義継の追跡に向かい、追いついたところを鉄砲で討ち取った。このとき輝宗も死去した。その後、弔い合戦と称して二本松城を包囲したが、援軍として駆け付けた佐竹氏率いる南奥州の連合軍と人取橋で激突、伊達軍は潰走し、老臣・鬼庭下月斎の必死の防戦により命からがら退却に成功した。関白・豊臣秀吉による惣無事令を無視して大崎氏や蘆名氏などの周辺勢力と戦い一時苦境に立たされたが、調略と交渉によって体勢の立て直しに成功する。勢いを盛り返した政宗は蘆名氏や二階堂氏を攻め滅ぼし、抵抗する勢力を次々と傘下に収めた。これまで政宗は秀吉からの恭順命令を黙殺し続けていたが、小田原攻めが決着する直前に服属を決意し恭順することを許された。文禄の役に従軍し、伊達軍の絢爛豪華な戦装束は巷間の噂になった。秀吉死後に起こった関ケ原の戦いでは東軍として上杉領へ侵攻したが、福島城に籠る上杉家の重臣・本庄繁長の頑強な抵抗に阻まれて攻略に失敗した。戦後、本拠地を仙台に移した。また家康の許可を得てエスパーニャ(スペイン)やローマなどに使節団を派遣した。大阪夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次を討ち取り軍勢をさらに進めたが、真田信繁率いる軍勢に反撃を受けたため後退した。戦後、信繁の次男・真田守信や長宗我部盛親の親族を伊達家に迎えている。徳川の世となり争い事が無くなると領国開発に力を入れた。徳川家光の時代に病死。

伊達政宗といえば戦国ファンでなくとも知っている超有名人なだけに、どう描けばよいのか非常に悩みました。結果、なるべく一般的なイメージかつ厳かでエネルギッシュなイラストを目指して描きました。