今川 義元
(いまがわ よしもと)
今川 義元
投稿日:2017年 12月 16日

駿河国の生まれ。父は駿河・遠江守護の今川氏親。幼少時に仏門に入り、太原雪斎に預けられた。雪斎と共に京の建仁寺や妙心寺で学識を深めたのち、兄・氏輝の命で駿河国に戻るが直後に氏輝が急死、次兄の彦五郎も同日死去したため家督を継承するため還俗し義元を名乗った。しかし家臣の福島(櫛間?)氏の反対により、対抗馬として異母兄の玄広恵探が担ぎ上げられ家督争いが起きる(花倉の乱)。はじめは義元側が劣勢だったが雪斎や家臣団の奮戦により花倉の乱を制し今川氏の当主となった。甲斐守護・武田信虎の娘を正室に迎え武田氏と同盟を結んだが、この行為に対して父の代から盟友関係にあった北条氏の怒りを買い河東(静岡県東部)を奪われてしまった。数年後、義元は関東の山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた。作戦は成功し、戦力を二分させられた北条氏は河東を今川氏に返還することで和睦した。三河方面においては松平広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を人質として迎える約束を交わし、三河勢の従属化を図った。この動きに対抗して尾張国の織田信秀が三河へ侵攻してくるが、雪斎や朝比奈泰能などの活躍により今川軍が大勝した(小豆坂の戦い)。広忠死去後は領主不在となった松平家に今川家臣を送り込み、事実上松平氏の家臣団や領地を支配下に収めた。父が定めた今川仮名目録に追加法を加え、この中で自らが戦国大名であることを宣言し、足利将軍家との関係を断ち切った。その後、今川・武田・北条間で婚姻関係を結び、三国同盟を結ぶことで領国を安定化させた。義元は家督を嫡男・氏真に譲って駿河・遠江の領国経営を任せ、自身は三河の経営に力を注いだ。尾張国への侵攻準備が整うと那古野城を目指して侵攻を開始、前哨戦で勝利を収めた。しかし今川本隊を移動させる途上、桶狭間山で休息中に敵方の大将である織田信長の攻撃を受け討死した。

桶狭間の戦いで義元が討死した理由は、信長を追い詰めすぎたせいだったのかなと個人的に考えています。義元の戦い方を見ると、華々しい正面対決や奇襲などはあまり出てこず、じわりじわりと相手の選択肢を減らしていくような戦い方が多いように思います。これが災いして、信長に勝てるルートを見つけさせてしまったことが敗因だったのかなと勝手に思いました。