徳川 家康
(とくがわ いえやす)
徳川 家康
投稿日:2017年 11月 26日

三河国の生まれ。松平広忠の嫡男。幼名は竹千代。今川氏の人質として駿府へ送られる途中、戸田康光によって織田氏へ売り払われてしまう。二年後に父・広忠は亡くなった。今川義元は人質交換を行い竹千代を取り戻した。駿府で元服して松平元信を名乗った。桶狭間の戦いでは先鋒を任され、織田軍に包囲されていた大高城に兵糧を運び込んだ。義元が討たれると戦場から離脱し、今川氏に接収されていた本拠地・岡崎城に入城した。その後は今川氏と断交して織田氏と同盟を結び、名を家康に改めた。三河一向一揆が勃発すると半年かけてこれを鎮圧した。三河統一後に姓を徳川に改姓した。甲斐の武田氏と協定を結び今川領へ侵攻、今川氏真を降し遠江国を支配下に置くことに成功する。武田信玄が西上作戦を始めるとこれを迎撃するが、完膚なきまでに叩きのめされた。しかし信玄が病死したため武田軍は撤退し家康は窮地を脱した。長篠の戦いで織田氏と共に武田氏を大いに打ち破った。武田氏と長年攻防を繰り返していた高天神城を落城させたことで、織田氏の武田領への侵攻が開始され武田氏は滅亡した。信長の招きで堺を遊覧中に本能寺の変が起き信長が死亡、家康は伊賀国を越えて命からがら三河国へと帰還した。変後、空白地帯となった旧武田領へ侵攻し、北条氏との戦いを経て甲斐国・信濃国を獲得した。信長の死後、織田家内で影響力を強めていた羽柴秀吉と対立し小牧・長久手の戦いが起こるも全面対決には至らず秀吉優位で和議が整った。以後、秀吉への屈服を余儀なくされ、諸大名の前で臣従することを表明した。秀吉死後に行われた関ケ原の戦いで勝利を収め、天下人としての立場を確立した。征夷大将軍に任官し、晩年にはかねてからの憂いであった豊臣氏を滅ぼして徳川氏の日本支配を盤石なものにしてこの世を去った。

ふんどしは洗濯の回数を減らすために薄黄色のものにしていたそうで、家臣たちにも奨めていたらしいです。家康がふんどしをどれくらいのペースで洗濯していたのか気になります。