松永 久秀
(まつなが ひさひで)
松永 久秀
投稿日:2017年 11月 19日

摂津国の生まれ(?)。はじめ三好長慶の右筆として仕えた。長慶が上洛するとこれに従い家宰となった。その後、長慶の命で大和国に入り信貴山城を居城とした。将軍・足利義輝から御供衆に任じられ弾正少弼に任官した。以降、幕臣として三好家と幕府との橋渡し的な役割を担った。長慶没後は彼の甥・義継を三好三人衆と共に担ぎ上げた。将軍・義輝が主君・義継や三人衆らによって殺害されるが、この時久秀は大和国におり参加していない。畿内の主導権をめぐり、義継を担ぐ三人衆と争うものの敗北を繰り返し、一時堺に身を潜めた。三人衆が大和国に侵攻してきた際には、本陣である東大寺を奇襲し撃破したが、大仏殿は焼け、大仏の首が落ちる事態となった。信長が上洛すると主君・義継と共にいち早く降伏し、名茶器・九十九髪茄子を献上した。信長による朝倉氏討伐に参加し、浅井長政の離反を受けた際には近江国朽木谷領主・朽木元網を説得して退路を確保した。信長と三人衆の和睦交渉が始まるとこれを取りまとめた。信長包囲網が形成されると義継や三人衆とともに謀反を起こしたが、義継は戦死し籠城していた多聞山城も包囲されたため降伏した。その後は佐久間信盛の寄騎とされたが、反信長勢力と呼応して謀反を起こし信貴山城に立て籠もった。織田軍による攻撃が開始されると名器・平蜘蛛茶釜を叩き割り天守に火をかけ自害した。

調べていくと大悪人久秀のイメージはあまり感じられず、むしろ三好家に忠義を貫いた武将であったことに気づかされます。イラストは私個人の久秀イメージが100%です。