島津 義弘
(しまづ よしひろ)
島津 義弘
投稿日:2017年 10月 22日

薩摩国の生まれ。島津貴久の次男。岩剣城の戦いで初陣を飾る。大隅国の蒲生氏攻めで初の首級を挙げたが、矢を五本も受ける重傷を負った。伊東義祐が築城中だった三ツ山城を兄・義久、弟・歳久とともに襲ったが挟み撃ちに遭い重傷を負いながら撤退した。木崎原の戦いでは義祐の大軍を少数の寡兵で奇襲し打ち破った。大友氏との耳川での戦いや阿蘇氏攻めなどでも戦功を挙げた。豊臣秀吉による九州平定戦では日向根白坂にて豊臣軍と激突、自ら抜刀して斬り込んだが敗北した。義久の説得で木食応其の仲介のもと降伏した。文禄の役では軍役動員が遅れ「日本一の遅陣」として面目を失った。慶長の役における泗川(しせん)の戦いでは、明・朝鮮の大軍に対して食糧庫を焼き討ちして短期決戦に持ち込み兵力差で驕っていた敵軍を大いに蹴散らした。露梁(ろりょう)海戦では敵将・李舜臣(り・しゅんしん)を戦死させた。関ヶ原の戦いでは西軍が総崩れとなる中、生き残りをかけて敵中突破を決行、家康本陣まで迫ったところで転進し伊勢街道を南下した。このとき徳川勢による執拗な追撃を受け、捨て奸と呼ばれる捨て身の戦法で義弘は戦場を離脱できたが、甥・豊久や家老・長寿院盛淳は身代わりとなって討死にした。薩摩帰国後、徳川との和平交渉にあたり、最終的に島津家の本領安堵と義弘に対してのお咎めも無しという結果で落着した。隠居後は若者の教育に力を注いだ。

猛将のイメージが強いですが、一方で家族思いで人情味あふれる人物でもあったそうです。義弘の強さはそういった人柄にあったのかもしれませんね。


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