朝倉 義景
(あさくら よしかげ)
朝倉 義景
投稿日:2017年 10月 9日

越前国の生まれ。父・孝景の死に伴い家督を相続する。若年のため一族の重鎮・朝倉宗滴の補佐を受けながら政務を執った。宗滴死後は自ら政務を執り、数年間は越前の平穏を保っている。将軍・足利義輝が殺害されると、その弟の覚慶(還俗して義秋、後の足利義昭)を越前に迎えた。義秋の仲介で長年対立関係にあった加賀一向一揆との和睦が成立している。義秋は朝倉館で元服し名乗りを義昭に改めた。義景は義昭を手厚く持成したが、義昭の望む上洛戦に対しては消極的であった。そのため義昭は当時勢いに乗っていた織田信長のもとへと去った。若狭武田氏に内紛が起こるとこれに介入し、武田元明を保護するとして越前で軟禁し若狭を支配下に置いた。信長が義昭を奉じて上洛すると、義景に対して上洛するよう二度に渡って命が下ったが、義景はこれらを拒否したため、信長による越前侵攻の口実を作らせてしまった。浅井軍とともに織田・徳川連合軍を姉川で迎え撃ったが敗北した。ただしこの時義景は出陣していない。その後信長が摂津国へ出兵している隙を突いて近江坂本に侵攻し、信長の弟・信治や重臣・森可成などを討ち取った。信長が近江に引き返してくると比叡山に立て籠もりそれと対峙した。決戦を求められたが無視したため、足利義昭や朝廷が動いて講和することとなった。甲斐の武田信玄による西上作戦が始まると浅井軍とともに打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗れたため、兵の疲労と積雪を理由にして撤退した。信玄からは激しく非難された。信玄が病没すると信長が主力を率いて近江へ侵攻してきたため義景も全軍を率いて出陣した。信長は朝倉方の砦を次々と落とし浅井氏との連携を断つ作戦に出たため、義景は越前への撤退を決断する。しかしそれを予測していた信長により激しい追撃を受け刀根坂で多くの将兵を失った。義景は命からがら一乗谷へと逃げ込んだが、留守を守っていたはずの将兵の大半が逃げ出していた。従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れるが、信長と通じた景鏡に裏切られ自害した。

かけ引きが下手だったのか、信長に滅ぼされてしまいましたが、文化や産業の発展に努力した義景の功績は大きいと思います。当時の日本でガラス工房を構えていた点や、中継貿易から直接貿易に変えた点などは義景が決して暗愚なわけではなかった証拠になると思います。